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第2話:九条という“怪物”

Author: 月亭脱兎
last update publish date: 2026-08-26 09:35:25

 終えて、私は麻布に向かった。

 電車の中で、昨夜のことを何度も思い返していた。100万円という数字。三條圭の冷たい目。

 ——夢じゃなかった。

 指定された麻布のカフェ『アリル』は、まるで一般人を寄せつけない雰囲気を纏っていた。

 表には真鍮の看板もない。無機質な壁に大きめのドアらしき造作が施されていて、一見カフェだとは分からない。

 深呼吸する。

 ——大丈夫。私は、変わるって決めたんだ。

 中に入れば、漆黒の壁と大理石のカウンター。控えめな照明。並ぶのはスーツの男と、MacBookを開く女性ばかり。値段の書いてないメニュー表。

 庶民の私には「場違い」という言葉すら控えめに思える。

「九条様がお待ちです」と言われ、奥の個室に通されたとき、私は直感的に理解した。

 ここが、異世界の入り口だと。

     ◇

「ああ……やっと来たか。三條の坊ちゃん、ずいぶん気まぐれなことをする」

 部屋の奥にいたのは、50代くらいの男だった。

 第一印象は——「危険」。

 無精ひげに、革ジャン。だがシャツは高級イタリア仕立てで、腕にはロレックス。指には、ミニマルだが重厚なシルバーリング。

 アウトローと紳士が、矛盾なく同居している。

 座り方にも風格があった。背もたれに深く寄りかかっているのに、どこか隙がない。身体の芯に、緊張が宿っている。

 顔には、深い皺が刻まれていた。でも、それは老いではなく、経験の証に見えた。何かを乗り越えてきた人間だけが持つ、重みのある皺。

 ——この人、ただ者じゃない。

 その空気が、皮膚に刺さるほど強烈だった。

 三條圭とは、また違う種類の「怖さ」。圭は氷のような冷たさだったけど、この人は——炎。触れたら、焼かれる。

「……あの、九条先生、で……すか?」

「そうだよ。美咲ちゃん」

 彼は書類を閉じ、私の顔をじっと見た。

 その目は、どこまでも冷静で、洞察的だった。まるでCTスキャンのように、私の内側まで見透かしているような。

「今度はあんたが新しい犠牲者ってわけ?」

「……犠牲者?」

「まったく、三條の坊ちゃんの道楽には毎度付き合いきれない。飽きれば捨てる、気まぐれで拾う」

 その言葉に、胸がチクリと痛んだ。

 ——やっぱり、そうなんだ。私は「拾われた」側。

「……」

「だがな」

 九条が、身を乗り出した。私の顔を近くでまじまじと見つめる。

「今回は、ちと様子が違う……かもな」

「私の顔に、何かついてます……か?」

「いや、別に」

 九条は、ふっと笑った。その笑顔が、一瞬だけ——柔らかく見えた。

 私が何かを言う前に、九条はゆっくりと背もたれに寄りかかり、煙草の火をつけた。無造作だが、指先に一分の無駄もない。どこか軍人めいた精密さがあった。

     ◇

「君さ、自分がどれだけ"詰んでる"か、理解してるか?」

「……はい、それはもう」

「違うな。"わかったつもり"になってるだけだ。理解してない。だから同じ目に遭う」

 その言葉に、背筋が凍った。

「貯金ゼロ、借金あり、信用情報に傷。どうしようもない底辺だな、あんた」

 まるで私の履歴書をすべて読んだかのような言葉だった。さすがにムッとする。

「……そこまで言わなくても」

「事実だろう」

「事実ですけど、言い方ってものが——」

「俺は嘘をつかない主義だ。耳に痛いことを言われて腹が立つなら、今すぐ帰れ」

 九条の目が、真っ直ぐ私を見ていた。試されている。そう感じた。

「……帰りません」

 私は、九条の目を見返した。

「言い方がひどいとは思います。でも、事実は事実です。だから、変わりたいんです」

 声が震えていた。でも、引かなかった。

 私は今まで、こういう場面でいつも引いてきた。上司に怒鳴られれば黙って頭を下げた。詐欺師に騙されても、文句を言えなかった。

 ——でも、もうやめる。

 黙って従うだけの人生は、もう嫌だ。

 九条が、わずかに目を細めた。

「……ほう。根性はあるみたいだな」

「だがな、底辺には底辺ならではの"上がり方"があるんだよ」

「底辺の……上がり方?」

「三條が言ったろ。"無知を知った者には、選択肢がある"って」

 私は、ただ頷くことしかできなかった。

「いいか、投資とは"知識"じゃない。"構造"だ。数字を並べるだけのやつは、一生カモで終わる」

 九条はテーブルに置いたコーヒーカップを指さした。

「これ一杯を"誰が仕入れて、どこで搾取されて、誰が得をするか"——一瞬で想像できるか?」

「それは……」

「つまり資本の流れが見えなきゃ、君は永遠に"飲まされる側"だ」

 そのとき、脳の奥を殴られたような感覚が走った。

 彼の言葉は、理屈じゃない。電撃のように伝わる何かだった。

 ——この人は、世界の「見え方」が違う。

     ◇

「じゃ、まずテストだ」

 九条は紙ナプキンに三つの単語を書いた。

【車】【マンション】【ブランドバッグ】

「この中で、今買えるなら何を買う?」

「……え?」

「答えはすぐ。直感でいい」

「……マンション、です」

「理由は?」

「……資産になりそう、だから……?」

 九条は目を細め、ふっと笑った。

「悪くない。が、甘い」

 そして紙を丸めて捨てた。

「全部買わない。現金だ。初心者は"動かさないこと"が最大の防御。金持ちが勝つのは、"待てる"からだ。底辺が負けるのは、"待てない"からだ」

 私は、唖然としていた。

 それは、どんな情報商材にも、どんなセミナーにも書いていなかった"逆の真理"だった。

 ——待てる者が勝つ。

 その言葉が、深く胸に刺さった。私は、ずっと「待てなかった」。すぐに結果が欲しくて、焦って、騙されて。

 詐欺師たちは、その「待てない心理」を利用していたんだ。

 「今だけ」「限定」「早い者勝ち」——そんな言葉に、私は何度も釣られてきた。

 九条は、それを見抜いている。私の弱さを、全部分かっている。

     ◇

「さて。ルールを伝えるぞ」

 九条は、再び姿勢を正した。

「その100万円、運用は全部お前が決めろ。銘柄選定、タイミング、ロット——一切口を出さない。俺はただ、分析と助言をする。"選択"は常にお前だ」

「え……私が決めるんですか!?」

「失敗しても俺は責任を取らない。だが成功したとき、君には次の世界が見える。三條の言う"選ばれる"ってのは、そういうことだ」

 九条は、革の手帳を私に手渡した。古びた革。使い込まれた質感。でも、どこか温かみがある。

「まずは、自分の"資金管理ルール"を書け。勝ちたいならリスクヘッジ——つまり"損を減らす設計"から始めろ」

 言葉が、重かった。でも、嘘じゃなかった。

 この男なら、本当に"底辺"を頂点に押し上げる術を知っている——そう思った。

     ◇

「なあ、美咲ちゃん」

 九条が、煙草を灰皿に押し付けながら言った。

「君、自分の顔が悪くないのはわかってるだろ?」

「……まあ、一応は」

 母譲りの顔立ち。それは、私にとって複雑な感情を呼び起こすものだった。

 綺麗だと言われるたびに、母のことを思い出す。その美貌を武器にして、男を渡り歩いた母。私は、その顔が嫌いだった。

 だから、化粧は最低限にしてきた。地味な服を選んできた。

 でも、この人は——私の顔を「条件」だと言う。

 複雑な気持ちだった。嬉しいような、悔しいような。

「三條が女を仕事に引っ張るときは、三つ条件がある。"バカじゃない" "執念がある" "顔が好み" このどれか」

「……」

「——たぶん、君はギリ全部入ってる」

「……え?」

 心臓が、跳ねた。

「さて、坊ちゃんに"見る目"があるかどうか、見ものだな」

 九条の目が、どこか遠くを見ていた。この人は、三條圭のことを「坊ちゃん」と呼ぶ。

 ——坊ちゃん。

 その呼び方には、皮肉と、どこか愛情のようなものが混じっていた。長い付き合いなのだろう。それも、単なる仕事上の関係ではなく。

 二人の間には、何か深い因縁があるのかもしれない。

 私の胸が、少しだけ高鳴った。

 ——いや、やめよう。そんな期待は、また裏切られるだけだ。

「君の見た目が"切符"だとしたら、中に入るのは"実力"だ。いいか、切符を無駄にするなよ」

 九条が、立ち上がった。思ったより背が高い。180センチは超えているだろう。

 九条という男は、ただの指南役ではない。

 この人こそ、"底辺の人間"を頂点に引き上げてきた、"怪物"なのかもしれない。

 私は、革の手帳を両手で握りしめた。

 古い革の匂いがする。誰かが、この手帳を使って、成功したのかもしれない。あるいは、失敗したのかもしれない。

 どちらにしても、これは「挑戦の証」だ。

 ——次は、私の番だ。

 窓の外では、麻布の夜景がまたたいていた。

 ここからが、私の……本当の"投資"の始まりだ。

 (つづく)

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