LOGIN電車の中で、昨夜のことを何度も思い返していた。100万円という数字。三條圭の冷たい目。
——夢じゃなかった。
指定された麻布のカフェ『アリル』は、まるで一般人を寄せつけない雰囲気を纏っていた。
表には真鍮の看板もない。無機質な壁に大きめのドアらしき造作が施されていて、一見カフェだとは分からない。
深呼吸する。
——大丈夫。私は、変わるって決めたんだ。
中に入れば、漆黒の壁と大理石のカウンター。控えめな照明。並ぶのはスーツの男と、MacBookを開く女性ばかり。値段の書いてないメニュー表。
庶民の私には「場違い」という言葉すら控えめに思える。
「九条様がお待ちです」と言われ、奥の個室に通されたとき、私は直感的に理解した。
ここが、異世界の入り口だと。
◇ 「ああ……やっと来たか。三條の坊ちゃん、ずいぶん気まぐれなことをする」部屋の奥にいたのは、50代くらいの男だった。
第一印象は——「危険」。
無精ひげに、革ジャン。だがシャツは高級イタリア仕立てで、腕にはロレックス。指には、ミニマルだが重厚なシルバーリング。
アウトローと紳士が、矛盾なく同居している。
座り方にも風格があった。背もたれに深く寄りかかっているのに、どこか隙がない。身体の芯に、緊張が宿っている。
顔には、深い皺が刻まれていた。でも、それは老いではなく、経験の証に見えた。何かを乗り越えてきた人間だけが持つ、重みのある皺。
——この人、ただ者じゃない。
その空気が、皮膚に刺さるほど強烈だった。
三條圭とは、また違う種類の「怖さ」。圭は氷のような冷たさだったけど、この人は——炎。触れたら、焼かれる。
「……あの、九条先生、で……すか?」
「そうだよ。美咲ちゃん」
彼は書類を閉じ、私の顔をじっと見た。
その目は、どこまでも冷静で、洞察的だった。まるでCTスキャンのように、私の内側まで見透かしているような。
「今度はあんたが新しい犠牲者ってわけ?」
「……犠牲者?」
「まったく、三條の坊ちゃんの道楽には毎度付き合いきれない。飽きれば捨てる、気まぐれで拾う」
その言葉に、胸がチクリと痛んだ。
——やっぱり、そうなんだ。私は「拾われた」側。
「……」
「だがな」
九条が、身を乗り出した。私の顔を近くでまじまじと見つめる。
「今回は、ちと様子が違う……かもな」
「私の顔に、何かついてます……か?」
「いや、別に」
九条は、ふっと笑った。その笑顔が、一瞬だけ——柔らかく見えた。
私が何かを言う前に、九条はゆっくりと背もたれに寄りかかり、煙草の火をつけた。無造作だが、指先に一分の無駄もない。どこか軍人めいた精密さがあった。
◇ 「君さ、自分がどれだけ"詰んでる"か、理解してるか?」「……はい、それはもう」
「違うな。"わかったつもり"になってるだけだ。理解してない。だから同じ目に遭う」
その言葉に、背筋が凍った。
「貯金ゼロ、借金あり、信用情報に傷。どうしようもない底辺だな、あんた」
まるで私の履歴書をすべて読んだかのような言葉だった。さすがにムッとする。
「……そこまで言わなくても」
「事実だろう」
「事実ですけど、言い方ってものが——」
「俺は嘘をつかない主義だ。耳に痛いことを言われて腹が立つなら、今すぐ帰れ」
九条の目が、真っ直ぐ私を見ていた。試されている。そう感じた。
「……帰りません」
私は、九条の目を見返した。
「言い方がひどいとは思います。でも、事実は事実です。だから、変わりたいんです」
声が震えていた。でも、引かなかった。
私は今まで、こういう場面でいつも引いてきた。上司に怒鳴られれば黙って頭を下げた。詐欺師に騙されても、文句を言えなかった。
——でも、もうやめる。
黙って従うだけの人生は、もう嫌だ。
九条が、わずかに目を細めた。
「……ほう。根性はあるみたいだな」
「だがな、底辺には底辺ならではの"上がり方"があるんだよ」
「底辺の……上がり方?」
「三條が言ったろ。"無知を知った者には、選択肢がある"って」
私は、ただ頷くことしかできなかった。
「いいか、投資とは"知識"じゃない。"構造"だ。数字を並べるだけのやつは、一生カモで終わる」
九条はテーブルに置いたコーヒーカップを指さした。
「これ一杯を"誰が仕入れて、どこで搾取されて、誰が得をするか"——一瞬で想像できるか?」
「それは……」
「つまり資本の流れが見えなきゃ、君は永遠に"飲まされる側"だ」
そのとき、脳の奥を殴られたような感覚が走った。
彼の言葉は、理屈じゃない。電撃のように伝わる何かだった。
——この人は、世界の「見え方」が違う。
◇ 「じゃ、まずテストだ」九条は紙ナプキンに三つの単語を書いた。
【車】【マンション】【ブランドバッグ】
「この中で、今買えるなら何を買う?」
「……え?」
「答えはすぐ。直感でいい」
「……マンション、です」
「理由は?」
「……資産になりそう、だから……?」
九条は目を細め、ふっと笑った。
「悪くない。が、甘い」
そして紙を丸めて捨てた。
「全部買わない。現金だ。初心者は"動かさないこと"が最大の防御。金持ちが勝つのは、"待てる"からだ。底辺が負けるのは、"待てない"からだ」
私は、唖然としていた。
それは、どんな情報商材にも、どんなセミナーにも書いていなかった"逆の真理"だった。
——待てる者が勝つ。
その言葉が、深く胸に刺さった。私は、ずっと「待てなかった」。すぐに結果が欲しくて、焦って、騙されて。
詐欺師たちは、その「待てない心理」を利用していたんだ。
「今だけ」「限定」「早い者勝ち」——そんな言葉に、私は何度も釣られてきた。
九条は、それを見抜いている。私の弱さを、全部分かっている。
◇ 「さて。ルールを伝えるぞ」九条は、再び姿勢を正した。
「その100万円、運用は全部お前が決めろ。銘柄選定、タイミング、ロット——一切口を出さない。俺はただ、分析と助言をする。"選択"は常にお前だ」
「え……私が決めるんですか!?」
「失敗しても俺は責任を取らない。だが成功したとき、君には次の世界が見える。三條の言う"選ばれる"ってのは、そういうことだ」
九条は、革の手帳を私に手渡した。古びた革。使い込まれた質感。でも、どこか温かみがある。
「まずは、自分の"資金管理ルール"を書け。勝ちたいならリスクヘッジ——つまり"損を減らす設計"から始めろ」
言葉が、重かった。でも、嘘じゃなかった。
この男なら、本当に"底辺"を頂点に押し上げる術を知っている——そう思った。
◇ 「なあ、美咲ちゃん」九条が、煙草を灰皿に押し付けながら言った。
「君、自分の顔が悪くないのはわかってるだろ?」
「……まあ、一応は」
母譲りの顔立ち。それは、私にとって複雑な感情を呼び起こすものだった。
綺麗だと言われるたびに、母のことを思い出す。その美貌を武器にして、男を渡り歩いた母。私は、その顔が嫌いだった。
だから、化粧は最低限にしてきた。地味な服を選んできた。
でも、この人は——私の顔を「条件」だと言う。
複雑な気持ちだった。嬉しいような、悔しいような。
「三條が女を仕事に引っ張るときは、三つ条件がある。"バカじゃない" "執念がある" "顔が好み" このどれか」
「……」
「——たぶん、君はギリ全部入ってる」
「……え?」
心臓が、跳ねた。
「さて、坊ちゃんに"見る目"があるかどうか、見ものだな」
九条の目が、どこか遠くを見ていた。この人は、三條圭のことを「坊ちゃん」と呼ぶ。
——坊ちゃん。
その呼び方には、皮肉と、どこか愛情のようなものが混じっていた。長い付き合いなのだろう。それも、単なる仕事上の関係ではなく。
二人の間には、何か深い因縁があるのかもしれない。
私の胸が、少しだけ高鳴った。
——いや、やめよう。そんな期待は、また裏切られるだけだ。
「君の見た目が"切符"だとしたら、中に入るのは"実力"だ。いいか、切符を無駄にするなよ」
九条が、立ち上がった。思ったより背が高い。180センチは超えているだろう。
九条という男は、ただの指南役ではない。
この人こそ、"底辺の人間"を頂点に引き上げてきた、"怪物"なのかもしれない。
私は、革の手帳を両手で握りしめた。
古い革の匂いがする。誰かが、この手帳を使って、成功したのかもしれない。あるいは、失敗したのかもしれない。
どちらにしても、これは「挑戦の証」だ。
——次は、私の番だ。
窓の外では、麻布の夜景がまたたいていた。
ここからが、私の……本当の"投資"の始まりだ。
(つづく)——“仮説が崩れたら即撤退” それは、私がノートに書いた、ルールだった。 しかし、そのルールを守るには、あまりにも心が揺れてしまった。 金曜日、九条のオフィスを訪れた。 コンクリートうちっぱなしのミニマムなその部屋は思ったより整頓されていて、九条の雰囲気に反して几帳面さを感じた。 (この人、意外と真面目なのかな) 本人は部屋に中央にある、使い込まれたル・コルビジェのソファにどかりと腰を落とし、ここが自分の定位置だと言わんばかりにふんぞり返っていた。「さあて、お前の仮説はどうなるかな」 私は対面に置かれたアーロンチェアに座り、スマホでABZフーズの中間決算を見守る。 仮説では30%以上の業績上方修正。 その結果は—— 売上は予想以上に増加。 しかし利益が、市場予想を下回る“微増”に留まった。 宅配アプリの利用者の増加、物価高に伴う単価上昇、ライバルの撤退ニュース——好材料が揃ってたのに何故!? その理由というのが「仕入れコストの上昇」「人件費の圧迫」といった、四季報にない、私が考慮していなかった要素ばかりだった。 結果株価は、購入時から5%マイナスのまま止まっていた。 ——仮説は崩れた。 『下がってる時に売らない』というのは下落中に狼狽売りをしないというルール。 株価が落ち着いている今、自分ルールに従うなら 『仮説が崩れたら即撤退』ということになる。 私はスマホを握る手を震わせながら、売却ボタンを押した。 初の投資結果は500円の損失。 しかしその数字以上に、ショックは大きかった。 「——なんで、あんなに考えたのに」 そうつぶやいた時、速報が飛び込んできた。 【ABZフーズ、競合企業ピナックと経営統合・合併を視野に協議】 次の瞬間、株価が急騰した。マイナスから一転、+12%へ反転する。 「……え? なによそれ……」 売った直後に上昇? 目の前のチャートが信じられなかった。 こんなの、仮説でも何でもない。完全な“想定外”。 だけど—— 「……今買い戻せば、損失を取り戻せるかも!」 それをじっと見ていた九条が、静かに呟く。 「——おい、お前が最初に決めたルール、忘れたのか?」 その言葉に、背筋が冷たくなる。 「お前が今やろうとしてるのは、“
——初めての「投資」を体験した翌朝。 私は、いつものように駅前の売店で焼きそばパンとコーヒーを買い、出勤ラッシュの波に揉まれながら会社の自動ドアをくぐった。 頭の中には、昨晩の九条の声がこだましていた。 ——底辺には底辺の上がり方がある。 言葉にすると短いのに、やけに刺さる。 私のような“持たざる女”にとって、あれは脅しでも慰めでもなく、一つの「現実」だった。 実家も地味な団地、両親も早くに離婚し、母は副業で夜の仕事しながら私を育てた。 奨学金で大学に入り、仕送りのない学生時代もバイトで乗り切った。 だから、就職先が「とりあえず潰れない中小企業」だっただけでも、私は運が良かったのかもしれない。 ただ……九条に言われたように、“見た目”に恵まれているとは自分でも思う。 でも、それに頼って生きる女にはなりたくなかった。 そう思っていた。いや、そう「思おうとしていた」。 それはきっと——母への反発だったのだろう。 でも今はそんな私情よりも、週末のABCフーズの中間決算のほうが心配だ。 昼休みに給湯室に入ると、コーヒーの香りが漂い、いつも通りの昼下がりの静けさがあった。 ——カチッ。 その音に顔を上げると、給湯機の前に派手な女性が立っていた。「天道さん、ここにいたのね」 声の主は、同僚の窪田カヲリ。 インスタのフォロワーは5千超え。Diorの小さなハンドバッグをさりげなく机に置き、ネイルは今季の流行色で塗り上げられている。 そして手首にはさりげなくシャネルの時計、ヒールの裏からのぞくルブタンの濃い赤色が「私は持ってる女」を醸し出している。 その指先で何度も小物をいじって、それをアピールしているようだった。 正直、こういう“承認欲求を全身で着てる女”は苦手だ。 「ねえ、天道さんて……もっと稼ぎたいと思わないの?」 その唐突な問いに、私は思わずお茶を噴きそうになった。 「え?どういう意味( まさかマルチの勧誘じゃないよね?!)」 内心構えた瞬間、彼女は小首をかしげた。「六本木のLUXって知ってる?」「知らない……けど、なんか夜っぽい?」 「そう、いわゆるラウンジ系でさ。客として座るだけで、時給数万円。容姿と愛想があればOLでも、夜だけで結構な稼ぎになるよ」「
目の前には、ノートとペンと、スマホの証券アプリ。 九条に渡された革の手帳の最初のページには、ボールペンで力強くこう書かれていた。 ――「自分のルールを書け。負けたくないなら、まず“|損を減らす設計《リスクヘッジ》”から始めろ。」 そう言われてまず書いたのは—— 『下がってる時に売らない』 ……当たり前過ぎる、我ながらアホっぽいルールだ。 九条をチラッと見ると、身を乗り出してノートを覗き込み、ニヤッと笑った。「ほう、悪くないルールだ」 褒められたのが意外だったが、それ以降はずっと手が止まっていた。 損を減らす? 設計? そもそも、投資にそんなルールがあるなんて初めて聞いた。「考えても分からないか?じゃあまず、1万円だけ何か買ってみろ」 ソファにふんぞり返ったまま、九条が言った。「緊張する必要はねぇ。入門者はとにかく“場数”だ。だが——適当に選ぶなら、今すぐ帰れ」「……はい、真剣に選びます」 預かってるお金とはいえ、今の私にとっては一万円でも大金だ。 息を整え、スマホの証券アプリを開いた。 慣れない指でログインし、「人気銘柄ランキング」へ。「今上がってる株……注目されている銘柄」 つい、検索画面にそう打ち込もうとした時。「——おい、やめろ」 九条の声が低く響いた。「それ、やってる時点でお前は“負け組”だ。『上がってるから買う』は、バカの思考だ」 思わず手が止まる。「どういう……意味ですか?株って結局は人気投票みたいなものですよね」「バカたれ……“上がってる”ってのは、もう他人が仕込んでるってことだ。 つまり、今のお前は“爆発した打ち上げ花火をジャンプして掴みにいこう”としてる。な?バカだろ」「……たしかに」 言い方はキツイが間違ってはいない。「値動きの結果を見て判断するな。“理由”がなけりゃ、選ぶな。銘柄じゃなく“構造”を見ろ」 ていうか構造って何? まるで経済学の教科書をいきなり開かされたような気分だった。「じゃあ……こういうことかな」 私は九条に聞かれないよう、無言のまま有名企業の銘柄を探し始めた。「正直に言ってみろ。いま、“有名”なのを探してただろ」「……はい。やっぱり、それが安心かなって……」 九条は鼻で笑った。「女ってのは、どうしても“ブランド信仰”が抜けねぇん
終えて、私は麻布に向かった。 電車の中で、昨夜のことを何度も思い返していた。100万円という数字。三條圭の冷たい目。 ——夢じゃなかった。 指定された麻布のカフェ『アリル』は、まるで一般人を寄せつけない雰囲気を纏っていた。 表には真鍮の看板もない。無機質な壁に大きめのドアらしき造作が施されていて、一見カフェだとは分からない。 深呼吸する。 ——大丈夫。私は、変わるって決めたんだ。 中に入れば、漆黒の壁と大理石のカウンター。控えめな照明。並ぶのはスーツの男と、MacBookを開く女性ばかり。値段の書いてないメニュー表。 庶民の私には「場違い」という言葉すら控えめに思える。「九条様がお待ちです」と言われ、奥の個室に通されたとき、私は直感的に理解した。 ここが、異世界の入り口だと。 ◇ 「ああ……やっと来たか。三條の坊ちゃん、ずいぶん気まぐれなことをする」 部屋の奥にいたのは、50代くらいの男だった。 第一印象は——「危険」。 無精ひげに、革ジャン。だがシャツは高級イタリア仕立てで、腕にはロレックス。指には、ミニマルだが重厚なシルバーリング。 アウトローと紳士が、矛盾なく同居している。 座り方にも風格があった。背もたれに深く寄りかかっているのに、どこか隙がない。身体の芯に、緊張が宿っている。 顔には、深い皺が刻まれていた。でも、それは老いではなく、経験の証に見えた。何かを乗り越えてきた人間だけが持つ、重みのある皺。 ——この人、ただ者じゃない。 その空気が、皮膚に刺さるほど強烈だった。 三條圭とは、また違う種類の「怖さ」。圭は氷のような冷たさだったけど、この人は——炎。触れたら、焼かれる。「……あの、九条先生、で……すか?」「そうだよ。美咲ちゃん」 彼は書類を閉じ、私の顔をじっと見た。 その目は、どこまでも冷静で、洞察的だった。まるでCTスキャンのように、私の内側まで見透かしているような。「今度はあんたが新しい犠牲者ってわけ?」「……犠牲者?」「まったく、三條の坊ちゃんの道楽には毎度付き合いきれない。飽きれば捨てる、気まぐれで拾う」 その言葉に、胸がチクリと痛んだ。 ——やっぱり、そうなんだ。私は「拾われた」側。「……」「だがな」 九条が、身を乗り出した。私の顔を近くでまじまじと見つめる。
報酬は三千円。新宿の貸し会議室に午後19時集合。 それは、社会人向け無料セミナーのアルバイトだった。 説明には「就業後に話を聞くだけの簡単な副業体験モニター」と書かれていた。 当然、怪しい。 普通なら、こんな案件には手を出さない。「話を聞くだけで三千円」なんて、裏があるに決まってる。マルチ商法の勧誘か、怪しい投資セミナーか、最悪の場合は詐欺の片棒を担がされるか。 ——でも私はもう、選べる立場じゃなかった。 給与だけでは、もう生活がままならないのだ。昼間の仕事に影響のない時間で、少しでも収入を増やさなければならなかった。 電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見た。 疲れている。目の下に隈がある。化粧で隠しきれないくらいの。 ——27歳。もうすぐ28歳。 同年代の友達は、結婚したり、昇進したり、海外旅行に行ったりしている。SNSを開けば、キラキラした写真ばかり。 私だけが、取り残されている気がした。 でも、他人を羨んでも仕方ない。今の私にできることは、目の前の三千円を確実に手に入れることだけだ。 会社では毎日、上司の嫌味に耐えている。「天道さん、また間違えてる」「こんな簡単なこともできないの?」——そんな言葉を浴びせられながら、私は愛想笑いを浮かべるしかない。 辞めたい。何度もそう思った。 でも、辞めたところで次がない。転職活動をする余裕もない。貯金はゼロ。いや、マイナスだ。 だから私は今日も、怪しいと分かっていながら、この会場に来てしまった。 ——情けない。本当に、情けない。 心の中で、自分を嘲笑う。でも、笑ったところで現実は変わらない。 ◇ 会場には、スーツ姿のビジネスマン風の男たちが十数人。 私のような「仕事に疲れ果てた末に藁にもすがるような顔をした人」は、ほんの数人だった。 壁際のテーブルにペットボトルの水と資料が並び、前方にはスクリーンと演壇。最前列にはスタッフらしい若い女性が数人いて、どこかで見たことがあるようなモデル風の美人が揃っていた。 ——こういう綺麗どころで釣るのは、マルチやネットワークビジネス系が使う常套手段だ。 私も、見た目で彼女らに負けているとは思わない。 母譲りの目鼻立ちは、よく「綺麗」と言われる。でも、私はその言葉が嫌いだった。母は、その美貌を使って男から金を引き出すよう
「−1,042円」 その数字を、私は三度見した。 マイナス。赤字。 画面の光が、暗い電車の中で私の顔を照らしている。周囲の乗客は、誰も私を見ていない。みんな、自分のスマホに夢中だ。 数日前までは、まだギリギリプラスだったはずだ。確か、2,000円くらいは残っていた。 朝のコンビニで買った108円のおにぎりが、最後の一押しだったのかもしれない。 ツナマヨ。私の好物。それが、口座をマイナスに突き落とした。 笑えない。全然笑えない。 私の名前は天道美咲。 まもなくアラサーに突入する、中小企業につとめるしがない会社員。 朝の通勤電車は、いつものように混んでいた。スーツ姿のサラリーマンたちに押されながら、私は吊り革にしがみついている。 電車の中で項垂れる私の横では、制服姿の女子高生がイヤホンをつけて、スマホでSNSを眺めていた。 画面が、ちらりと見えた。「秒で億り人になれる方法。これが最後の募集」「貯金ゼロだったシンママが副業で月収100万♡」「新NISAで成功! 毎月5万円の配当生活」 派手なサムネイルが、次々とスクロールされていく。 私は思わず目を背けた。胃の奥が、きゅっと締め付けられる。 ——私はそれを、信じた側だった。 ◇ あのときのアカウントは、完璧だった。 アイコンは清楚な女性の横顔。女性限定の副業情報を紹介していて、DMで相談したら、ものすごく丁寧に返してくれた。「最初は自己投資が大事ですよ」 「私も最初は不安でした」 優しい言葉と、成功体験のスクショの山。 信じた。やっと人生が変わると思った。 そして、教材費と称して50万円を振り込んだ。 50万円。私の貯金の、ほとんど全部だった。 送られてきたのは、ネットで拾ったようなPDF資料と、今はもう繋がらないLINEアカウント。 どこかで見たことのある無料noteの内容に、「月収100万」とか「再現性あり!」とか、色だけ変えて上書きしただけのクズ情報。 ——騙された。その事実を認めるまで、一週間かかった。 それでも諦めきれず、次に参加したのが「新NISA活用セミナー」だった。 会場にはスーツ姿の男たちと、明らかに"勧誘されてきた"ような女性たち。 まあ私も、そんなバカな女の一人だったわけだけど。 紹介された投資先は、何をどう見ても新